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いわゆる「風評被害」に対する私見

福島県産を忌避する人の割合が12.7%まで減ったというニュースを見た。いやあ、ずいぶん減ったものだ。

ところで、風評被害という言葉はあらゆる現場で都合よく使われるけれども、個人的には「経済的な風評被害」と「差別としての風評被害」に大きく分けられると思っている(まあこの括りもすでに古くさいものかもしれないけれど)。

経済の風評被害払拭の目的は、何より「売上回復」であり「観光客数の回復」なので、福島県産を忌避する12.7%ではなく、むしろ残りの87.3%のほうを考えるのがヘルシーだし、それに合わせて流通プロセスを検証したり、そもそもの「マーケティング」などに重きを置くべきだと思っている。

一方、福島県産忌避は謂われない差別だということで、差別の解消を目的に動く人は、当然この12.7%を無視できない。できるだけゼロにするために情報発信などを行うことになる。

で、経済的風評被害に対する対策は、まあ個々の戦術はいろいろあるにせよ、基本理念として中間層も重要視する。当然、商売人はまだ買ったことのない人もイチゲンさんも強く意識するからだ。本来ならば差別としての風評対策も「正しい情報を広く拡散する」で同意できるはずだったのだが、そうならなかった。

後者は、当然「デマを潰す」ことが目的になりがちで、しかもデマを言ってるのは基本的に反原発左翼なので、容易に政治的友敵に回収されることになるからだ。政治に関心ある人はそもそも「中間層」ではない。だから政治論争や当事者論争に疲れた中間層は、じわじわと抜け落ちていくことになる。

つまり、経済的風評被害と、差別としての風評被害を解決するためのアプローチは、「中間層の扱い」だけを取り出しても、相反するものになっていくということ。伝え方も、言葉も当然変わってくる(いや、個人的には経済的風評被害もデマ解消も「当たり前の事実を広く伝えること」で両立できると思ってますけれども)。

で、問題は、国や県が、この「経済的風評被害」と「差別としての風評」の対策をごっちゃにしたということだろう。売上を回復させるような対策を取るべきもの、つまり商売の戦略的な話やブランド(信頼)づくりの戦略と、正しい情報を広く伝えるべきチャンネルを混同してしまった。地域や商売の話をしなければいけないのに、個人の尊厳を重要視せざるを得なかったということかもしれない。

原発事故から数年間は有識者や学者たちと連携して正しいデータの把握と発信に力が注がれた。その流れで、差別としての風評対策が風評対策の本流になっていった面がある。それはもちろん“必要な”アプローチだったと思う。けれども2014年くらいからかな、ネット言論が結びついて安直な「サヨク叩き」になった。正しい情報を拡散させるために、本来はデータを粛々と広く伝えるべき人たちが政治的な友敵関係の情報流通網に乗ったわけだね。

より多くの人たちに伝えたい、差別的な左翼をつぶしたいと思うがために、本来はフラットな立場に立つべき人たちが、明確に政治的になっていったということなんだよな。デマでしか対抗できない急進的な反原発の人たちもどうかと思うけれど、その「友敵関係に乗ったプロセス」で何を得、何が失われたのかを検証しないといけないような気はしている。

商売をする人は、目の前の人が右翼だろうと左翼だろうと買ってくれる人がお客であり、買ってくれない人も将来のお客だけれど、政治はそうはいかないんだよなあ。その流儀を持ち込んだことで、失われたものが多かったのではないか。

で、その結果デマがなくなって12.7%になったのか、単に忘れられただけなのかは分からない。けれども、不毛な論争に明け暮れている間に、重要な復興予算のいくらかはふっ飛んだだろうし、福島に関心を寄せてくれていた人は去ってしまい、一方でアホなデマを言っているヤツはまだ生存しているというわけだ。そして、空費したこの数年間で、地域全体でどうやって食っていくのかという「地域づくり」の問題(経済的風評払拭の本質)は置いていかれてしまった。

漁業水産業の例を見るまでもなく、国や県が音頭を取りつつ、一次産業も物産も観光も交えて「地域づくり」を考えなければいけなかったはずだ。どうやって100年後も食っていくんだ、的な。でも、なぜか出てくるのは、福島県のイメージアップムービーとかアニメとか、そんなんばかり。しかも大して外側には広がらず、福島オタクの人たちが浪費していくだけのコンテンツになっているように見えなくもない(ムービーひとつとっても、秋田のTrue North Akitaのムービー見てみ。我が県、圧倒的に予算かけてるわりに、映像のクオリティで負けてるから)。

ぼくは、復興も風評被害対策も、一言で言えば「地域づくり」の問題だと思っているし、風評被害対策に限らず、異なる選択をする人をどう受け止めるかという問題も「地域づくり」だと思っている。だから失われたこの3、4年は実にもったいなかったとずっと感じてきた(けれど必要なプロセスだったのかもしれないと今は思うしかないのかもなあ、とも思う)。

しかしそのうえで、もはや遅くてもいいから、復興という「国策」に乗らずに、自立を高めながら地域づくりをしていくことに一市民としてどう関われるかを考えたい。だって、おれは死んでも、地域には残ってもらわないと困るもの。

震災から7年になるし、12.7%にまで減ったことをよしとして、風評被害対策の本流を再構築することはできないだろうか。「差別はダメゼッタイ!」を譲れない点としておさえたうえで、もう少し遠くへ、中間層へどう届けるか。そしていかにファンを作り、いかに地域産業を再生し、正しい情報を伝えながら、いかに多様な選択を受け入れていくのか、というところにフォーカスしなおさなければいけないのではないか。

経済的な風評払拭(よりよい地域になっていくこと)は、結果的に個人の尊厳を満たし、結果的に正しい認識を広め、結果的に心の復興をもたらすはずだし、5年くらい前から言っている気がするけれど、何より、地域の魅力創出と正しい情報の流布は、分けて展開したうえで両立できるはずなのだ。

防潮堤は作ったけれど町に住む人はいなくなった。大きな魚市場を作ったけれど漁業者がいなくなった。福島の正しい情報は伝わったけれど魅力を創出できなかった。なんかね、そんな話ばかりのような気がするわけですよ。

 


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