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浜通り通信27万字で言いたかったこと

思想家の東浩紀さんが編集長を務める『ゲンロンβ』という電子批評誌で「浜通り通信」という連載を書き続けてきた。書き始めたのは2014年の5月。まだその当時は電子批評誌というよりメルマガで、タイトルも『福島第一原発観光地化通信』という名前だった。同誌はその後『ゲンロン観光地化メルマガ』(#36で終了)に改名され、さらに『ゲンロン観光通信』(#10で終了)としてリニューアルされ、最終的にはゲンロン本誌の電子版『ゲンロンβ』として生まれ変わり、その第14号まで浜通り通信は連載された。最終回は2017年5月である。足掛け3年。

すべての入稿テキストをコピペしてワードに打ち出してみたら全部で27万字あった。うおおお、すげえ、27万字だぜ。良く書いたわ。まあ50回のうち10回は別の著者にお願いをして書いてもらっているので、ぼくの書いたのは40回分ということになるけれど、それにしたって27万字もよく頑張ってきたなあと思う。ついでなので、ここで書いてきたことを振り返りながら総括していくために、タイトルをぜんぶ並べてみよう。

 

#1 いわき回廊美術館に見る、ゲリラ的場づくり 小松理虔
#2 福島第一原発沖 海洋調査プロジェクトを考える 小松理虔
#3 福島発「建築以下の設計」とは? 小松理虔
#4 ブルーシートとは何だったのか 江尻浩二郎
#5 福島県いわき市の新たな文化のカタチ 西丸亮
#6 走りながら考える 藤田大
#7 福島という「バックヤード」から考える 小松理虔
#8 UDOK.とは「弱いつながり」の起動装置である 小松理虔
#9 草野心平から始まるいわきのアートの新たな胎動 小松理虔
#10 フクシマ・ノート1 南相馬スケッチ19452011 あの日の空も青かった  二上英朗
#11 フクシマ・ノート2 続・南相馬市スケッチ 定点観測者の憂鬱  二上英朗
#12 かまぼこエアコンと「復興”卒業”論」 小松理虔
#13 小名浜の「一湯一家」 小松理虔
#14 うみラボ2014総括 小松理虔
#15 日々の新聞のこと 安竜昌弘
#16 いわきの今 安竜昌弘
#17 フクシマ・ノート3 災害は映画を模倣する 二上英朗
#18 「ロッコク」を走り抜ける 1 小松理虔
#19 「ロッコク」を走り抜ける 2 小松理虔
#20 イオンモールいわき小名浜にまつわる暗い話 小松理虔
#21 ぼくたちはいかにして怒りを発するべきか 小松理虔
#22 タブレットで取り戻す、浪江の日常と人々の絆 吉永隆之
#23 フクシマ・ノート4 相馬双葉の地下からの文明論メッセージ 二上英朗
#24 福島の筋肉痛 小松理虔
#25 躍動する常磐ラッパーたち 小松理虔
#26 浜通りで続ける抵抗 小松理虔
#27 いわきに必要な「コンテンポラリーアート」 小松理虔
#28 今さらながら福島第一原発観光地化計画 小松理虔
#29 復興と破壊 いわき観光裏ツアー案内 小松理虔
#30 除染を「ケガレ」にしないために 小松理虔
#31 福島第一原発視察記 小松理虔
#32 被災地の「極上」を伝える 小松理虔
#33 復興とは何か 小松理虔
#34 「常磐」から考える 小松理虔
#35 被災地アートと助成金の未来 小松理虔
#36 うみラボ最新調査報告 小松理虔
#37 飛露喜と泉川、ブランドとコモディティ
#38 絶望でもなく、希望でもなく 小松理虔
#39 豊かで貧しい潮目の土地 小松理虔
#40 情緒と科学、引き裂かれた福島 小松理虔
#41 豊間から「当事者として」復興を考える 小松理虔
#42 カオスラ市街劇は本当に「地域アート」を終わらせられるのか 小松理虔
#43 10万年の憂鬱 小松理虔
#44 2016年11月の浜通り、そしてそのリアル 小松理虔
#45 小名浜のヤンキーが見た「小名浜竜宮」 小松理虔
#46 忘れやすい日本で、福島の観客を取り戻す 小松理虔
#47 ロッコクを走る2017 小松理虔
#48 ハリボテの城が指し示す未来 小松理虔
#49 自分だけの生ではないからこそ 小松理虔
#50 最終回 誤配なき復興 小松理虔

 

振り返ってみると、言ってることはあまり変わっておらず、わりと一貫している。

序盤戦では「ゲリラ論」を展開した。これは「当事者論」でもある。ぼくが友人の丹洋祐くんと立ち上げた「UDOK.」というオルタナティブスペースも、釣り師の八木淳一さんたちと運営している「いわき海洋調べ隊 うみラボ」にも共通しているのだけれど、要するに、復興とか地域云々とか、そういう文脈から離れて(助成金とかからも離れて)、「勝手に」「ゲリラ戦」をやるのが大事だし面白いよね、ということだ。浜通り通信の第1号では、そのゲリラ戦の正当性を「いわき回廊美術館」に託して書いた。

その頃から、というか2011年4月あたりから、ぼくは「当事者性と持続性の拡張」ということを活動の軸にしていた。ぼくたちは原発事故や廃炉という、解決するまで軽く100年はかかるかもしれない厄介な問題を抱えている。これを見届けないと死んでも死にきれない。だから、自分たちの始めた活動が100年は続くように設計しなければならない。その時の鍵が「当事者性」と「持続性」だ。どんなに素晴らしいアクションも、関わってくれる人は増えないと活動は尻すぼみになるし、結果持続しない。だから、当事者性と持続性を持たせることが大事だと考えていたのだ。

ゲリラ戦は、「正規戦=まじめさ」からの撤退戦でもあった。震災があって「被災地のために」活動することがなかば強制された。ぼくは自分の生活を楽しくするためにUDOK.を立ち上げたのに、周囲から「震災ボランティアのため」「被災した若者が地域づくりを考えるため」という役割を押し付けられた。しかしそんなものはクソくらえである。そんなものを押し付けられたのでは、活動は「やらされる」ものになり、モチベーションは上がらない。モチベーションがあがらなければ、やりたくなくなってしまう。つまり持続しない。そんなところには人も集まらない。

勝手にゲリラ戦を展開しておけば、その面白さは地域にはみ出していく。その結果、多くの人たちが巻き込まれ、そこには公共性が生まれる。震災後、多くの人が「震災復興事業」に関わったけれど、その多くは助成金が切れたタイミングで閉じられてしまう。そんなことを繰り返していても、自分のためにも地域のためにもならない。だからぼくは「ふまじめなゲリラ戦」を展開しようと考えたわけだ。うみラボが不謹慎なまでに「たのしい」「おいしい」「おもしろい」を掲げるのも、同じ理由からである。

不謹慎なまでに、ふまじめに「復興を楽しむ」。これは2011年くらいから一貫している。そうでないと外部の人たちが関われないからだ。ただでさえ福島の人たちは「大変な思いをしている人たち」である。なんというか一歩引かれているわけだ。こっちは普通に生きてるのに「何と声をかけたらよいか・・・」なんて言われてしまう。それではどんどん関わりにくくなってしまう。だから、福島に暮らす私たちこそ「ふまじめさ」が求められるわけだ。ふまじめであるからこそ、外から気軽に関われるようになり、そこに当事者性と持続性が付与されていく。

つまり、ゲリラ戦=ふまじめ=復興を楽しむ=外部の獲得=当事者性と持続性の拡大、ということなので、まあ、わりとそこは一貫してたように見える。ゲリラ戦は、やがて東さんの『観光客の哲学』における「誤配」という概念と結びつき、浜通り通信の最終回で「誤配なき復興」というテキストとしてまとめられることになる。最終回では、町づくりでよく語られる「ソトモノ、ワカモノ、バカモノ」を「外部、未来、ふまじめ」に置き換えて説明した。ぼくが小名浜で続けてきた「実践」と、東さんの「批評」が、ようやく最終回で深く接続されたわけだ。

 

—「ありがた迷惑」と「誤配」

 

これらの問題意識がより強い実感を伴うことになるのは、開沼博くんの『はじめての福島学』以降である。この本のなかの「ありがた迷惑」という言葉は、今思い返しても、やはりとても印象的だった。福島県に暮らす人たちの本音だと首肯できる面もありながら、一方でそれは「外部の遮断」そのものだとも思えたからだ。差別的な発言をする人も多くいたので「開沼くんよくぞ言ってくれた!」という思いもあったけれど、同時に、県外や首都圏で、特にメディアに関わる人たちから「福島が語りにくくなってしまった」という声を聞くようにもなったのだ。

そしてこのあたりから、ぼくは「科学的」という言葉に疑いを持ち始めた。もちろんデータに疑いは持っていない。その「伝え方」や「コミュニケーション」のほうに疑念を抱くようになった、ということかもしれない。ぼくは「うみラボ」という活動で「科学的なデータ」を取り続けている。しかし、そうしたデータが、対話や相互理解の材料になるのではなく、むしろ人々のコミュニケーションの「分断」のために使われるようになったのを感じた。科学的にデータが揃ってくるのは良いことのはずだ。しかし、なぜか相互理解が進まない。なぜだろうと。

そのあたりの問題意識は、中盤以降の「浜通り通信」にもよく取り上げられている。データが、相互理解や対話ではなく、むしろ「分断」の道具になってしまっているのではないか。そんなことを書いたと記憶している。人間はそもそも情緒的な生き物だ。だから、データの正しさではなく、そのコミュニケーションに左右されてしまう。バカと言われれば対話は不可能になるし、関わってくれるなと言われれば信頼はやはり生まれない。データは「理解してもらうため」の材料のはずなのに、コミュニケーション段階で失敗してしまったら正しさも伝わらなくなってしまう。

誰かに届けたいと思って発する言葉と、誰かを切り捨てたいと思って発する言葉では、伝わり方が違う。つまり、大事なのは「誰を意識するか」なのではないか。敵を意識して発するのか、敵味方の圏外に向かって発するのか、そこには大きな違いがある。「ありがた迷惑」は、常に「ありがた迷惑を押し付けてくる対象=敵」を想起させる。その意味で、常に「敵」を存在させてしまう。そこには攻撃性が伴う。その攻撃性を過敏に受け取ってしまった人は、かえって関わりにくさを感じないだろうか。

たぶん、「ありがた迷惑」にも一定の効果はあったのだろう。あれを契機に福島を語るのを辞めた人が大勢いたはずだ。ただ、そこにはわりと良心的な人も含まれていたように思う。「こんなことを言ったら迷惑かな」「もっとちゃんと理解しないと」、そんな風に感じていた人だからこそ、福島から距離を置いてしまったのではないか(ぼくはそういう声をよく聞いた)。一方、差別的な発言をし続ける一部の過激派は、むしろ「ありがた迷惑」によって、福島への憎悪を膨らませ、それを隠そうともせず、さらに尖鋭化しているようにも見える。

もちろん、デマの発言主に訂正をさせることは大変効果的だろう。ただ、そのような発信はとても疲れる。放射能はとても政治的なものなので、デマを言い続ける人間は、おそらくこれからも言い続けるだろうからだ。ふまじめなぼくには、そのような「正規戦」は無理だ。それだけの体力もないし、やる気もない。頑張ってデータは届けるけれど、正規戦を張るだけの余力がない。いわきのうまいものを自慢し続けて、それが誰かに当たればいい、というようなゲリラ戦しか、ぼくには参加できる力がない。情けない限りではあるが。

 

—復興とはなにか問題

 

ところで、開沼博くんの『はじめての福島学』は、被災地を「課題先進地区」と捉え、震災前からの地続きの問題を解決することを視野に入れていた。この問題意識は心の底から共感できる。「復興」や「風評被害」という曖昧な言葉に囚われず、データを冷静に参照しながら、そもそもの問題を着実にクリアしていく。それこそ復興なのではないか。それは、同書のとても素晴らしいメッセージだった。それだけに「ありがた迷惑」という言葉は勿体なかった。なぜなら「そもそも問題」を解決するには、外の人たちの関わりが欠かせないからだ。

そもそもの問題を解決しようと思えばこそ、外部を切り捨ててはならない。なぜなら、そこに「消費」が必要だからだ。気軽に福島のものを買ってもらう、何の予備知識もなく福島を旅してもらう、福島を心底楽しんでもらう、といったように。それはとても「ふまじめな」ことである。そこには「復興に寄与しよう」といった配慮はないからだ。「魅力的だから」「おいしいから」「楽しいところだから」こそ動員は喚起され、魅力は消費される。ふまじめな観光客だからこそ、福島を消費してくれ、それがよりよい地域づくりにつながるのだと、ぼくは考えている。

風評被害を叫んだところで、福島の商品は魅力的にならない。それと同じように、いくら復興を叫んだところで、よりよい地域にはならない。開沼くんの言うように、そもそもの地域課題を解決しなければ、真の復興とは言えないわけだ。だから、もう「復興」を叫ぶ必要はないし、「風評被害」を強調する必要もない。そもそもの問題を解決し、震災前よりいい地域にする。そこに尽力すべきだし、そこを目指すからこそ「ヨソモノ・ワカモノ・バカモノ」が欠かせないのだ。必然的に「そもそも問題の解決」には「誤配」的アプローチが求められることになる。

思い返せば、「復興をやめること」は「浜通り通信」に通底するテーマでもあった。12回目の「復興卒業論」にもそれは凝縮されているし、その後の連載でも、復興政策や「復興的なもの」への疑義を、ぼくは語り続けてきた。復興は「地域のそもそもの問題」を解決しない。安全が証明された福島県産品が売れないのと同じように、震災前の問題が解決しなければ、いくら復興を叫んだところで元の木阿弥だ。そんな状態で、震災で失われた命や、失われた文化はどうなるだろう。「前より良い土地にする」ことなしに、復興とは言えないのではないだろうか。

 

—そもそも問題の根源を探る、歴史と文化、そして芸術—

 

そもそも問題に光を当てると、なぜそもそもそのような問題が生まれたのか、歴史的、文化的背景を探らなければならなくなる。浜通り通信では、いわき市のバックヤード性を「常磐」という土地の歴史から紐解いた。関ヶ原と戊辰の二度の敗戦。東海と福島第一の二度の原子力災害。そのような歴史を紐解きながら、常磐>浜通り>いわき>小名浜の「宿命」を何度か取り上げた。それはつまるところNIMBYの問題と結びつく。「原発事故」を「障害」に置き換え、「方法的差別」の道を探ることについても、この連載では言及した。

いわきで震災後に生まれたアートフェスティバル「玄玄天」、カオス*ラウンジ市街劇、小名浜本町通り芸術祭、蔡國強が手がけた「いわき回廊美術館」、さらには、いわき市出身のアートディレクター、緑川雄太郎くんのコメントなども収録した。なぜなら、NIMBYという障害を持つぼくたちが社会にメッセージを発する時、文化や芸術の力が必要になると考えたからだ。この地には、繰り返されてきた歴史、強烈な宿命がある。その宿命に抗うために、ぼくたちは「マイノリティの流儀」を持つべきなのだ。

震災復興は、この地の宿命をさらに強固なものにしているように見える。そもそもの構造、そもそもの問題、そもそもの課題を、固定化してしまっているように思える。そこから脱する、あるいは抵抗するために必要なのが、文化や芸術であり、ふまじめさであり、誤配であり、外部からの関わりであり、ゲリラ戦であり、おいしさや楽しさや面白さなのだ。浜通り通信の後半では、このあたりのことを、いささか感情的なまでに書き連ねている。連載の終わりが見えていたので、ぼく個人の思想のようなものを伝えておきたかった、ということもある。

原発事故があった、という歴史は変えられない。過去の歴史を見れば、この事故もまた宿命めいたものだったのかもしれない。しかし、それを繰り返さないために、余所の土地で万が一のことがあっても、最小限で食い止められるように、福島の知見をより広く、空間的にも時間的にもより遠くに届けていく必要がある。そのとき、本当の意味での「当事者」などいない。他県の人も、他国の人も、未来の人も、もしかしたら過去の人たちも、皆、当事者であると言える。彼らをすべて巻き込まなければ、原発事故という災害の本質は見えて来ないのではないか。

当事者を増やすには、当事者の壁など作らないほうがいい。何百年もかかるしれない廃炉に向き合うには、社会的な関心を何百年も維持しなければならない。だったら、楽しく、おいしく、面白く、つまり「ふまじめ」であるべきだ。それは、原発事故の知見を未来に伝えるだけでなく、なにより「よりよい地域をつくること」や「よりよく人生を生きること」にも欠かせないものだと思う。その意味で、ぼくはここで「人生論」的なことも書いてきたのかもしれない。50回にわたる「浜通り通信」は、ぼくの学び、気づきの痕跡でもある。

誤配などというと、東さんの影響を強く受けているように見えるかもしれないけれど、震災直後から、実はぼくがずっと訴えてきたことでもあるということが、この連載のラインナップを見るとわかる。もしかしたら、東さんのほうがぼくに「寄せて」きているのかもしれない。来月、ゲンロンカフェでトークイベントに参加させてもらうことになっている。その時に、聞いてみることにしよう。

 


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