dsc_7956

知ろうとすることから、伝えようとすることへ

昨日、筑波大学比較文化学類の木村周平先生にお呼び頂き、「比文プロジェクト」という一連のシリーズ企画で学生向けに話をさせてもらう機会を頂いた。講演者はわたしのほかにもう一人いて、2012年の末くらいからもう4年近くなにかとお世話になっている、筑波大学大学院の五十嵐泰正准教授とのコンビである。いわき海洋調べ隊「うみ」ラボでも、アドバイザーとして関わって頂いている先生だ。

五十嵐先生は、千葉県柏市でまちづくりにも関わる「現場主義」の社会学者。原発事故後、高濃度プルームの影響でホットスポットとなってしまった柏で、生産者や消費者、飲食店、販売店、一般市民ら、みなが納得したうえで安心安全のカタチを探ろうという「安全・安心の柏産柏消 円卓会議」を立ち上げ、住民同士の合意形成に奔走した人でもある。

具体的に何を行ったかは「シノドス」の復興アリーナなどに掲載されているので、興味がある人は読んで欲しいのだが、膨大な回数の「土壌の計測」を、野菜の直販という実売に繋げただけでなく、生産者と消費者、お互いの顔の見える信頼関係を構築することに成功し、農家のやる気をアップさせ、「ジモト野菜」のブランディング、あるいは地域コミュニティの再生にまで繋げているという点で、かなり希有な成功事例なのだ。

こういうと「マーケティング重視」のようにも聞こえるけれど、自分たちの生活に直結する地元農産物について、どこまで放射線を許容するのかを「社会的に」決めたという、福島県民のわたしからすれば「よくそんなことができたな」と思わずにいられない、社会的合意形成の事例でもある。普通はどれだけ会議をやってもまとまらないよこんなもん。しかし、それができたからこそ、この「円卓会議」は様々なメディアに取り上げられ、本にもなり、賞味期限が切れることなく、こうしてわたしたちに多くのヒントを与えてくれるのである。

 

―物理学的・医学的問題から社会学的問題へ

 

さて、その五十嵐先生とのコラボ講演。テーマは「伝えようとすること」である。

これはもちろん、広告業界のレジェンド糸井重里さんと、東大の早野龍五先生との共著『知ろうとすること』を意識したものだ。社会的にも大きな反響を呼び、わたしたちの日常の活動にも大きな影響を与えた同書だが、今の福島の状況を見ると、「知ろうとすること」から「伝えようとすること」にフェイズが移っているのではないかということを、わたしも五十嵐先生も強く感じている。だから、学生のみんな、一緒にそれを考えてみましょうね、というわけだ。

「知ろうとすること」。それはつまり市民サイドからの「物理学あるいは医学的知見へのアクセス」である。これに対し「伝えようとすること」は、「地域内での共感と対話/コミュニケーションの拡充」、つまり「社会学的な関わりを考えよう」ということ。実はこの指摘、物理学・医学的問題から、社会学・心理学的問題への移行についての指摘は、もうすでに2011年からあって、福島の放射線の問題というのは、医学的、物理学的にはもう結論は出ているのだと、あとは「社会がそれをどう受け入れるのか」なんだと、そう力説する学者も多かったそうだ。

そもそも、放射線防護を巡っては、ICRP(国際放射線防護委員会)が基本精神として「ALARA(As low as reasonably achievable)」というものを打ち出している。「すべての被曝は社会的、経済的要因を考慮に入れながら合理的に達成可能な限り低く抑えましょう」ということだ。これ以上は絶対危険/これ以下は絶対安全という値はない。どこまでなら被曝を許容するのか、社会の置かれている状況を考えながら決めましょうと、はじめからそう言っているのだ。

しかし、この社会的な合意形成を、地域住民が主体で実現できたケースはあまりない。議論は紛糾するし、放射線についての予備知識も人によって様々だ。第一「放射能」というのは「政治的マター」でもある。いくら「政治と放射線防護は切り離してね」といっても、なかなか聞いてもらえない人もいる。そのような現場に入る役場の職員も摩耗するだろうし、面倒なことになるのはわかっているのだ。県内でも、いわきの末続のケースくらいしか成功事例と呼べるものはないのではないだろうか。要するに「むちゃくちゃ大変」なのだ。

ではこの間、社会学者が福島で何をやってきたかというと、特に何もしていない。目立つのは地元いわき出身の開沼博さん(立命大)たちがあらゆる手法を使って「学びの場」を作り、福島の正しい情報を発信してきたくらいで、五十嵐先生も講演でちらっと言及していたことだけれども、左翼的な立ち位置から「こんなに苦しんでるママがいるんだ!」ということを発信する、いわば弱者救済型の告発をしてきた社会学者が多かったのではないかと。

しかし五十嵐先生は、「社会学者は、告発者としてではなく、住民の合意形成を支え、様々な立場の人たちの意見を聞く調整役としての役割を果たさなければならない」と講演で説いていた。五十嵐先生が柏の円卓会議でやってきたことはまさにそれだ。議論の場の提供、議論のテーマやゴールの設定、多方面に対する調整、アンケート調査や実地調査の枠組みの構築、あるいはメディア対応など。相反する考えをもった人たち、その両方の考えを尊重し、まさに対話と熟議の根幹を支えてきたのだった。

 

―知る側に立って見える景色

 

社会学者の活躍が目立たない一方、自発的に知ろうとする市民は多くいて、放射線防護に関する当たり前の知識が広まったことは喜ぶべきだ。しかし、知ろうとして、そして知った結果「知る側」となった人たちが、「知らない側」にいる人たちの「不知」や「不安」をなじるような場面も増えてきた。知ろうとした結果、また別の問題が起きていて、その問題は「知ろうとする」だけでは解決できない類いの問題なのだ。

自分たちは一生懸命勉強してきたのに、未だに努力をせずに、時として福島を差別に晒すような言動をする人たちを許せないという気持ちは、よくわかる。わたしも、2013年からうみラボを主催してきて、多少は海の状況について詳しくなったこともあり、「サンマは大丈夫なんですか?」とか、「骨や皮は目玉は測ってるんですか」といったような、ちょっと見当違いなところからの質問が寄せられることが増えた。「お前まだそんなこと言ってんのかよ」と言いたい気持ちも当然わたしにもある。

だけれども、考えてみれば、やはり「知らない人」たちには情報が届いていないのかもしれないし、「無関心な人」たちにも当然届いていないのだろう。ならば、腰の重い彼らが「学ぼうとする」ことを期待するより、わたしたちが率先して伝える側に回ることで、規模は小さくとも、福島のファンを作ることはできるのではないか。もちろん、知ろうとする努力も必要だけれど、それを誰かに要求するのであれば、わたしたち、知っている側にいる人間だって、もっと伝えようとすることに敏感にならなければならないのではないか。五十嵐先生とも、そんな話になった。

わたしたちが伝えようとすればこそ「知らない人たち」だけでなく「無関心な人」にも情報は伝わっていく。正しい情報が増えれば、デマに騙される人も減り、デマを言う側は孤立していく。放射能が政治マターである以上、デマを言う人間を根絶はできないと思われるので、「ああ、あいつまたデマ言ってるよ」と判断できる人たちを増やすほうに資本を投じよう、という現実的な判断でもある。まあ本当はこれをやるのはメディアであるべきだけど。

「知ろうとすること」という言葉は、一見すると、一般市民からの「もっとぼくたちも学ばないとね」という謙虚な言葉に感じられるけれど、その裏側には「市民よ、もっと学びなさい」という学者目線のメタメッセージが隠されていたりもする。おそらくこれが科学者や専門家の基本姿勢なのだろう。特に大学は「教員」と「学生」の関係である。「お前ら、もっと勉強せい」と言い続けること。それは、専門家としては、正しい姿勢なのかもしれない。

しかし、わたしたちは専門家ではないし、専門家のアプローチを真似する必要もない。「正しさ」だけで人は動かないことを良く知っているし、その「正しさ」が人を傷つけることもあることもよく知っている。第一、わたしたちだって、ほんの少し前まで「わからない側」にいたのだ。「そうだよね、よくわからないよね、わたしたちもそうだったもの」と言えるのは、実はわたしたち市民のほうなのだ。

そしてまた、伝えようという「姿勢」には、福島の生産者を見ればよくわかるように「信頼」が生まれる。そこまでする必要はないのに、親切丁寧に商品を説明し、安全性を説き、時に酷い言葉を投げつけられながらも、地元のうまいもんを発信している生産者。市民は、安全だという科学的な正しさで商品を購入しているのではない。おいしさや、こだわりや、商品に込められた思いや、生産者の「姿勢」を見て買うのだ。つまり数値ではなく、数値を使う人に信頼が生まれるわけだ。わたしたちは、福島の商品を買うということを通じて、すでにそれを学んでいる。

もちろん、「知ろうとすること」や「伝えようとすること」、そうした態度を一般市民に求めることも、ある種のポリティカル・コレクトネスとして捉えられるのかもしれない。もっと勉強しろ、もっと伝える努力をしろと。だけれども、「正しい情報を発信すること」なしに、福島の正しい姿もなにもない。そしてせっかく発信するなら、仲間が増えるように伝えたほうがいい。たまたま先に知り得たわたしたちには、そんなふうに、「伝えようとすること」に対する幾ばくかの責任があるのではないかだろうか。

そしてその伝え方は、福島第一原子力発電所の事故の最大の問題が「社会の分断である」ことを念頭に置くならば、できるだけ分断を縫い合わせるような伝え方がベターであるはずだ。目先の問題ではなく、何のために知ろうとし、何のために伝えようとし、その先にどんな地域があって、どんな未来があって、どんな人生があるのか。知り、そして伝えることのゴールを今一度頭に思い浮かべつつ、どうこの分断を縫い直していくのかを考えていきたい。人間のコミュニケーションの問題である限り、物理学や医学の問題よりも、わたしたちの出番はたくさん用意されているはずだ。

五十嵐先生の講義、そしてセッションで得られたものの備忘録として。

 


Write a Reply or Comment

CAPTCHA