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風評被害と情報発信、情緒と科学

ここ最近、2冊の本を読んだ。ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』と、中谷内一也の『リスクのモノサシ』である。福島の風評被害について多少なりともカジってる人はもう既に読んだことがあるだろう。この2冊、行動心理学や認知心理学の観点から、人間がどのように情報を認識するのかを丁寧に解説していて、直接福島の原発事故後の風評被害を取りあげた本ではないが、人間の認識のメカニズムや、風評被害が起こる構造を理解するのにとても役に立った。

ぼくは、2012年からは市内のかまぼこメーカーの営業として3年働き、2013年からは市民による福島第一原発沖の海洋調査チームを共同運営している。専門的な教育を受けたわけではないけれど、商売人としての現場感は得ているつもりだし、実戦経験だけは積んできた多少の、いや少しの自負がある。

それゆえ、現場感覚を過信する向きもあって学術的な研究論文や風評被害についての論考は熱心には読んで来ず(汗)、今になってこうして焦って読んでいるわけだけれど(大汗)、この両書を読んで、現場からの経験と学問的知見を摺り合わせることができ、改めて再確認できたことが少なくない。

以下に自分なりの雑考を備忘録的に書き留めておく。

 

—人間は情緒的だ、という前提から考える

 

当たり前のことだが、人間は非科学的で情緒的なものだ。科学的データがどれほど揃っていようと「イヤなものはイヤ」なのが人間というものだろう。クラスのガキ大将が、水泳の授業中プールに堂々とおしっこをしたとして、それがいくら希釈されようと、水質検査してどれだけ法的に安心だと言われようと、おしっこの現場を見てしまったからには泳ぎたいとは思わないし、ましてやその水を飲みたいとは思わないはずだ。これは極端な例だが、科学的な正しさだけで人は動かないということだ。

私たちが放射性物質に対して情緒的に反応してしまうのは、文化的なレベルで忌避感が染み付いてしまっているからだろう。東海村での臨海事故やチェルノブイリ原発の事故などを通じ、放射能に対する「ケガレ」にも似た恐怖イメージがついてしまっている人が少なくない。さらに、電力会社や関係する自治体が「安全神話」を信奉してきたせいで、放射能に対する予備知識を国民が学ぶ機会を作って来なかったことにも問題があるだろう。

今まで散々ぱら原発を安全だと言い続けてきた側が、事故が起きて不安になる人を「もっと勉強しろ」と叱責する権利はない。何の前触れもなくその安全神話が崩壊し、大量のマスコミ報道や、危険に偏ったブログなどに触れ、突如としてその不安に向き合わざるを得なくなった人の心の混乱を理解はできる。ぼくも最初は混乱したので。

カーネマンは、人間の意思決定について、動的に働き、努力がほとんど必要ないほど直感的な思考である「システム1」と、熟考や努力、秩序を要する論理的な思考である「システム2」を定義しているが、文化的に染み付いた思考(例えば変なアンチャンがお墓に野グソをしていたら「なんてバチ当たりなヤツだ」と直感してしまうだろう)というのは、まさにシステム1の司るところだ。放射能に対する不安がいかに不合理なものであっても、それらを勘案したうえでリスク政策を設計すべしとカーネマンは説いている。

放射線技師や物理学者のように、誰もが正しく放射能を捉えられるわけではない。ぼくたち福島県民は必要に迫られて放射性物質についていろいろ詳しく調べたかもしれないけれど、それと同等の知識を別の誰か(一般市民)に求めるのは酷というもの。「5年経ってもまだそんな奴がいるのか」という気持ちはぼくにもあるけれど、「ヤバいくらいに伝わってない」という事実と、情緒的問題であることを受け止めた上で情報発信のあり方を見直すことからしか、これからの発信はできないのではないか。

 

―正しい情報だけじゃ足りない問題

 

多くの識者が指摘するように、正しい情報を発信するというのは大前提だと思う。ただ、これだけに囚われると硬直化するので、この「正しい情報の発信」は自治体に頑張ってもらうことにしよう。自治体が「おいしい」や「楽しい」を連発すると官製PRになり、かえって胡散臭くなる。自治体は、コツコツと測った数値を公表し、できることなら在京メディアなどでも取り上げてもらえるような働きかけや、生産者が首都圏などで商品をPRする「場」を提供することにも注力して欲しい。

もちろん、正しい情報だけでは人は動かない。人の心が動くのは「おいしい」や「面白い」や「楽しい」と相場が決まっている。これをやるのは生産者やメーカーのほうだ。福島の地酒を見習って欲しい。福島の地酒が売れるのは科学的に安全性が証明されているからではないし、福島の地酒を買うお客は「線量大丈夫ですか?」なんてことを聞かない。杜氏のものづくりへのこだわりや、安心・安全に対する姿勢、おいしさや「金賞受賞数日本一」という肩書きを「システム1」で理解しているのだ。もちろん聞かれた場合に備えて安全性を示すデータを出せるようにしておくのは大前提だが。

廃業寸前だった会津の廣木酒造が、少量限定の無濾過原酒「飛露喜」で奇跡の復活を果たし、モダンの潮流にも乗る形でブランド化され、その「飛露喜」に引っ張られるように他の蔵元から「寫楽」や「奈良萬」や「ロ萬」などモダンな酒が誕生し、いつの間にか銘醸地としての地位を築いた会津のように、農産物や海産物についても「飛露喜」的な存在をつくる生産者が求められる。

結局、うまいもんを作ったら、風評被害なんて関係がなくなるし、会社だけでなく地域にも目が向けられる。かまぼこメーカーに勤めていた頃にも痛感したことだけれど、生産者にできることは、結局「うまいものをつくる」ことに尽きる。首都圏の胃袋を満たすコモディティ商品を作りつつも、味や品質で勝負する商品も作っていくことが、やはり求められていくのではないか。このあたりは、郡山のブランド野菜の取り組みにヒントがありそうだ。

 

―科学と情緒の間に

 

自治体と生産者のほかにもう1つ意識して欲しいのが研究機関や専門機関の役割。アクアマリンふくしまで「調べラボ」というイベントが開かれている。福島第一原発で採取した魚の線量を測り、試験操業の魚を食うというイベントなのだが、面白いのは、ほとんどの客は線量測定なんかに興味がないということだ。うまそうな匂いをたてている紅葉汁やタコ飯が食べたいのである。

お客はそこで無意識に、知らず知らずのうちに、おいしい福島県産の魚を食う。「食べた」という経験が重要で、食べた後に、そこで「測ってみたらこうでした」というデータをつけたし的に触れて帰る。「福島の魚おいしかったし、なんか安全だって言ってたよ」。それでよいのだ。

この調べラボの「巧妙さ」がとてもいい。ほとんどの消費者は、科学的なデータを科学者のように判断して買っているわけではない。ぼんやり大丈夫だと思っているからで買っているのではないだろうか。不安だと思っている人の大半も、実は「ぼんやり」と不安だったりする。「ぼんやり不安」は情緒的な問題なのだから、情緒的な体験がきっかけになって「ぼんやりと安心」に変わり得る。それは、おいしさであったり、楽しさであったり、生産者の姿勢に触れることであったり、要するに「システム1」に働きかけるような取り組みだ。

この調べラボの手法が面白いのは、科学的なアプローチである「サイエンスコミュニケーション」と、情緒的なアプローチである「うまいもんの試食」を、同じ機関が同時に開催している点にある。研究機関や専門家は「専門知識」を開陳しがちだが、アクアマリンふくしまのアプローチを見習って欲しい。専門家が市民の中に入り、おいしいや楽しい、為になる、役に立つといった情緒的なアプローチと、計測や調査や考察といった科学的なアプローチを組み合わせていく。情緒と科学のハイブリッドとでも言えばいいだろうか。そこにヒントがありそうだ。

 

―科学者の真似をしなくてもよい

 

本題とは少しズレるけれど、もう1つ懸念されるのが、民間の情報発信が「殺伐」とした状況になっていること。事故から5年も経っているのに、未だに福島に対する差別的言説を繰り返す人たちが少なくない。一方、先鋭化した一部の過激派に引きずられるように「反デマ」も過激化していて、放射能の扱いが「政争化」することで、その議論は過激化している。その面倒臭さ故に、議論から離れてしまう人も少なくないはずだ。

悪質なデマを見つけたら、「そうではない」という事実を発信すること自体は当然の行為だ。ぼくも「福島の魚なんて放射性廃棄物と一緒」などという発言を見たら、思わずうみラボの調査結果を押し付けてしまう。しかし、正しい情報を発信するのではなく、安易な「左翼叩き」や「個人攻撃」になってしまうと、それは福島に対する「反感」として増幅されてしまうかもしれないし、より悪質なデマのほうへ足を向けさせてしまうことになりかねない。ぼくもやったことがあるのでよくわかる。だから自戒を込めて書いている。

ぼくがかまぼこメーカーに勤めていたときに意識していたのは、デマを批判するときには「そのやり取りを誰かが見ているかもしれないという感覚を持つこと」だった。いかに自分が正しい知識を有していたとしても、店先やツイッターで「勉強不足なヤツは帰れクソタレが!」と言ってしまったら、スッキリはするのだけれど、そのやり取りを見てメシがまずくなる人もいるだろうということだ。

面倒な客には静かに去って頂くしかない。そして、そのようなクソタレにすらも紳士的な対応をすれば「うおおあの店の人一生懸命だなあ辛いはずなのに」と逆に信頼を高めるチャンスになる。科学者や専門家が断固たる姿勢を見せるのは当然のことだ。が、何もぼくたちまでそのような態度を取る必要はない。いかに理不尽なデマだとしても、だからこそにこやかに「神対応」できる人間でありたい。デマに怒り、悔しく思うからこそ、理性を保つために「損をして得をとる」ことを選ぶ。このマーケティング感覚は忘れたくないと個人的には思っている。

科学的な正しさを認めない者は認めないという確固たる路線は当然あるべきだけれど、それ1本だけになると排除の論理が働いてしまう。不安や感情を前提にしたある種のソフト路線も複数ある状態で臨んでいくほうが、結果的に不安が取り除かれ正しい情報が伝わっていくのではないか。だいたい、人間は情緒的で感情的なものだし、ぼくは科学者でもなければ専門家でもない。市民が科学者の流儀を真似る必要もないのだ(諦)。生温いと言われそうだけれど。

当然、だからといって非科学的な言説を流布していいわけではない。科学的な知見に基づく事実ベースに立ちつつ、多様なコミュニケーションを担保すること。このあたりがポイントになるのかなと思っている。原発事故は多くの分断を生み出したが、生まれた分断を、さらなる分断と排除によって解決しようとしたら真の復興にはなり得ない。その考えをベースに、情緒的なイチ市民の立場からこの問題について向き合っていこうと思っている。

 

 


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